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【書評】実は日本人の取説なのだ! 新渡戸稲造『武士道』感想。

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新渡戸稲造

『武士道』

 

を読んだよ!

 

  

ざっくりまとめ

日本人の、キリスト教民による、外国人のための「サムライの取扱説明書」

もうちょっと詳しく

「武士道」というものを語るときには必ず登場するこの本。

新渡戸稲造さんが外国人に、「日本人はどうやって道徳の教育をするのか」

と問われました。

「自分はどの様に道徳の教育を受けたのか?」と考えたとき、

「それは武士道である」と結論づけ、一冊の本になったのがこの本ですね。

最初から日本人に対して書かれたものではないんですよ、この本。

では、気になったところをピックアップしていきましょう。

 

 

偏執狂VS酔っ払い

偏執狂とは、まあ超ざっくり言うと狂信者ですね。

さてこんな話が紹介されています。ちょっと端折って紹介すると、

町人が武士の背に「ノミがいる」と告げた。すると武士は

「ノミは動物に寄生するものだ。武士を動物扱いするとは

何事か」と言って町人を切り捨てた。

無茶苦茶やろ!

とはいえ、この話は「ありえなくはないな」と思われていたのでしょう。

まあ極端な例を持ち出して非難するのはよくないですね。

そんな事をするのは

キリストの真実の教えを、その狂信と過激の産物である

宗教裁判と偽善行為で判断することと変わらない。

と言ってます。まあ、それはそうですね。

宗教の偏執狂には、酔っぱらいの酩酊状態とくらべると

心を動かされる高貴な何かがある

どっちも近づきたくねえよ!

 

個人の利益、国の利益

西洋の個人主義は父と子、夫と妻に対してそれぞれ

個別の利害を認めている。

(中略)

しかし武士道においては、一族の利益とその個々の成員の利害は

一体不可分であるとする。

これは、分かりやすい武士道の一面ですね。ここからさらに続いて、

武士道では個人よりも国がまず存在すると考えられている。

つまり個人は国をになう構成部分として生まれてくる、というのだ。

これなんかは世のブラックな企業とか部活とかで要求してくるやつですねえ。

一方で盲目的な服従を良しとせず、主君に媚びへつらったりする者の評価は

極めて低かったそうですが…

本の最後の方で、「武士道は生き残るのだろうか?」と疑問に思っていましたが、

どうやら悪い部分だけ生き残ったようです。

生き残った最悪の部分

損得勘定をとらない

サムライの訓育全体から見て、数の観念を育てるという事は

都合が悪かったのである。

「都合が悪い」とはバッサリと斬り捨てますね。

なぜそうなのかは読み取れませんでした。唯一読み取れたのは、

「贅沢は人格に影響を及ぼす最大の脅威」として質素な生活を要求したからだ

という事だけでした。

そして無償、無報酬の実践へ

武士道は無償、無報酬で行われる実践のみを信じた。

精神的な価値にかかわる仕事は、僧侶、神官であろうと、

教師であろうと、その報酬は金銀で支払われるべきものではない。

それは無価値であるからではなく、価値がはかれないほど

貴いものであるからだ。

ここですね。何故ここが生き残った…と疑問ですが、どう考えても

他人に何かを要求する時に都合がよかったからでしょう。

例えばボランティアが無報酬なのは、「困っている人を助けるという心意気は金銭でははかれないから」だと考えた人がいてもおかしくないですね。

なぜ人は武士道を求めるのか

武士道は当初、「エリート」の栄光として登場した。

だがやがて国民全体の憧れとなり、その精神となった。

今で言うところの「年収○○○○万の人が実践する○○の事」…と比べるのは少々申し訳ないですが、武士道はそのもそも「武士」、つまりエリートや上流階級の在り方だったので、皆がありがったんでしょう。

そこから、エリートに対して「おれのかんがえたぶしどう」に従わない事を非難するようになったのでしょう。

某試合で「武士道」うんぬんで非難するのは、この類ですね。

 

まとめ

 

もう「武士」という肩書は存在しませんが、日本人の精神性を考えるのに

適した本だと思います。

一方で、外国人向けに書かれた本であるため、キリスト教の例や外国の著名人の名前が

頻繁に出てくる事もあって、例としてあげられても分かりにくい点があります。

それを差し引いても、日本の骨子を理解するには良い本だと思いますので

お勧めします。

 

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